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日本の仏教

因果と縁起

科学は自然現象や社会現象を観察してその背後にある原理や法則を体系化する学問です。自然科学は自然現象の原因に対して仮説を立て、実験によってその仮説を「証明」することが必要条件です。仮説はさまざまな事象から法則性を類推して構成されます。実験による客観性が確保されなければなりません。社会科学は主に人間社会の見られる現象に対して仮説を立てますが、科学実験のように再現性が困難な事例が多くあります。しかし、統計学的手法を用いて、仮説を証明することは自然科学と同じです。

仏教やその前進であるヒンズー教には因果の思想があります。

因果と縁起

原因があるから結果があると考えます。特にブッダが説いた宇宙や人生の真理であるダルマ(法)に到達するには自然現象や社会現象の因果を研究しなければなりません。ブッダは菩提樹の下で「縁起」の理法を悟りました。縁起とは現象が他の事象の影響を受けるということです。いかなる事象も独立しては存在できず、他の事象と関係しあって存在します。科学的な測定はニュートン力学が成立する世界ではかなり正確であっても、電子や中間子など素粒子の世界では測定の影響を受けるため本当の状態を観察することはできません。事象が独立して確認できないことは科学的な立場からみて独立していないことと同じ意味です。

宇宙や人生が因果と縁起をなくして語れないというのは仏教の根本的な考え方であり、原因があって結果があると考える科学と同じ立場です。科学的な思考をする素質がブッダにもともと備わっていたのでしょう。ブッダの説いた原始仏教はヒンズー教に見られたような迷信や呪術的要素を排除し、合理的で科学的な立場でダルマを追求したのです。しかし、北方に仏教が伝わるにしたがって、教団が作られ、その勢力を拡大するために民衆に受け入れやすい現世利益のため儀式や迷信が生まれました。そして、原始仏教に見られたブッダの合理的精神は徐々に失われていきました。

四苦八苦

仏教からはじまり日常生活でも用いられる言葉に四苦八苦があります。

  • 生まれる苦しみ
  • 病気になる苦しみ
  • 老いる苦しみ
  • 死ぬ苦しみ

そして以下の苦しみ

  • 愛する人と別れる苦しみ
  • 憎む人と供にする苦しみ
  • 求めるものが得られない苦しみ
  • 体は健康だが良い考えが浮かばない苦しみ

を加えて四苦八苦といいます。

ブッダの生きた時代、お産の時に母子共に感染症にかかって死ぬことが多く、お産はきわめて危険なものでした。無事に生まれてきただけでも幸せだったのです。また、現代のように抗生物質など薬もないため、死亡原因のほとんどは感染症でした。栄養摂取が十分できない昔は現在ではすぐに治るような病気であっても死に結びつくことがありました。

老いる苦しみは高齢化社会を迎えている日本人には切実な問題です。遺伝子工学の発達によって生物には寿命遺伝子があることが分かっています。例えば蠅は2 日間、人間は100年、チョウザメは150年と言われています。いま、日本ではアンチエージングが流行し、中高年の方々がヒアロン酸やボトックスを注射して顔のシワを伸ばしたり、コンザイムQ10などサプリメントや健康食品は花盛りです。しかし、見かけは若くても誰でもかならず老いを迎え、いずれ来る死を避けることはできません。与えられた人生を意義あるものとするためにも人生の苦しみを自覚することからまずはじめましょう。

五戒

ブッダの教えを実践しようとする南方仏教ではセックスや飲酒は禁じられています。こうした守らなければならない戒律に五戒があります。

  • 淫らな性交をしてはいけない
  • 酒を飲んではいけない
  • 生き物を殺してはいけない
  • 盗みをしてはいけない
  • 嘘をついてはいけない

こうした五戒は出家した僧侶はもちろん、在家信者も守らなければならないこととされています。僧侶は五戒も含めて250もの戒律を守らなければなりません。

しかし、日本では結婚している僧侶や、酒を飲む僧侶も珍しくはありません。これは、天台宗の開祖である最澄が必ずしも全ての戒律を守る必要はないとしたことと、浄土真宗の開祖である親鸞自身が婚姻して子供をもうけた事が契機となって戒律が有名無実化していったのです。

日本の仏教

日本の仏教

日本人は元来、自然崇拝や神道を信仰していましたが、6世紀に大陸から大乗仏教が伝わり、日本古来の多神教と中国の道教、儒教などが融合して独自の仏教が形成されていきました。仏教は物部氏と対立する蘇我氏の勢力拡張に利用され、蘇我氏が実権を握ると、天皇家の支持を受けて広まりました。特に7世紀初め、聖徳太子は積極的に中国から文化や仏教を導入しました。法隆寺など次々に寺院や貧民救済施設を建立しました。仏教は宗教としての役割以上に権威付けのため政治に利用されるようになりました。大化の改新以後、律令国家の体制が作られると寺院は国立の施設として、僧侶は公務員のような存在となり、本来の仏教の教えとかけ離れたものになっていきました。

奈良に平城京が作られた8世紀初め、「南都六宗」と呼ばれた宗派を中心として仏教経典の研究が盛んになりました。しかし、国家仏教と化したため、仏教は人々の救済に向かうことなく、呪術や神秘的力を求められ、五穀豊穣や鎮護国家(仏の法力で国家を安泰にする)の祈祷のため利用されるようになっていきました。

政治の実権が天皇家から藤原氏に移ってからも仏教は鎮護国家思想と共にますます発展していきました。何度も日本に渡ろうと試みて失明した中国僧の鑑真によって戒律や規範が伝えられたのは8世紀です。

9世紀始めには中国に留学していた最澄と空海が帰国して密教を伝えました。二人は出家して厳しい修行をしなくても、また戒律や規範を守らなくても、誰でも救われるという当時としては斬新な考え方を展開しました。

日本の仏教

12世紀になると藤原貴族は没落して平氏や源氏など武士の時代になりました。新興仏教が多く現れ、今日まで大きな影響を及ぼしていますので、この時代の仏教を総称して鎌倉仏教といいます。まず、平安末期に法然(1133〜1212)が浄土教を開きました。それまで仏教は貴族を対象としましたが、浄土教で初めて庶民を対象として救済が説かれるようになりました。出家や修行、学問や寄付などをしなくても往生(悟りを得て仏の世界に入る)するには、「南無阿弥陀仏」とひたすら念仏を唱えるだけ(専修念仏)で、阿弥陀仏(阿弥陀如来)によって救われると説きました。なお、阿弥陀仏は大乗仏教特有の仏陀であり、密教の大日如来やブッダである釈迦如来と並んで三大如来のひとりです。

13世紀には日蓮(1222〜1282)が日蓮宗を開きました。日蓮は法華経以外をすべて邪教であるとして、他の宗派を激しく攻撃しました。日蓮は「南妙法蓮華経」という題目だけを唱えれば、浄土教のように来世を待たずに、現世でも救われると説きました。また、「立正安国論」を書いて、当時流行していた災害や疫病は浄土宗など邪教を信じているからだと主張し、法華経を信仰しなければ災害や戦乱は止まずに、いずれは外国からの侵略を受けると警告しました。元寇で日蓮の警告が現実のものとなりましたが、他の宗派を邪教呼ばわりし過ぎたため、逆に鎌倉幕府や世間から迫害を受け続けました。

ところで、500年ごろ中国では達磨という仏僧が現れ、古代インドの瞑想法を積極的に取り入れて禅宗を開きました。この瞑想法は座禅と呼ばれるようになりました。この禅宗を日本に伝えたのが栄西(1141〜1215)と道元(1200〜1253)です。

栄西は中国に渡って臨済宗を持ち帰りました。この宗派は座禅をしながら禅問答(公案)によって悟りを開こうとしました。公案は仏師が弟子に先人の残した質問を出して、弟子は瞑想しながらその答えを考えるというものです。座禅はブッダが菩提樹の下で瞑想して悟りを開いたことに由来します。臨済宗は厳しい戒律を求めるため、武士の死生観に符合し、鎌倉幕府の保護を受けて発展しました。

道元は公案を批判し、黙って座禅をすることを説きました。座禅をする姿そのものが仏の姿であり、ただひたすら座禅をする(只管打座)事こそが悟りの道に通じると説きました。道元は読経や念仏を無益なことと否定し、山中で修行に打ち込み下級武士や農民の支持を集めるようになっていきました。道元の教えは曹洞宗と呼ばれ、現代でも座禅は多くの人々によって行われています。

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